原始時代の食生活は、天然の動植物を採取して生食したのだろうが、旧石器時代の末期に火を使うことを発明してから、火による調理がはじまった。
わが国の先史時代の研究では、旧石器と中石器時代の遺跡は発見されておらず、新石器時代の遺跡は全国のいたるところで発見されている。これらをみると、当時の民族は、相当の高度な文化を持つ人々らしく、海を渡ることでは、少なくとも舟をあやつるほどの文化を有していたのである。
日本の先史時代における食物は、古墳から発見される骨などの出土品で知ることができる。
水産物としては、淡水産、海水産など、200~300種を数え、ウナギも含まれている。わが国の主体となった民族が、四面を海で囲まれ、水産生物が豊富な地理的条件を利用して、これらを多く食べていたのだろう。しかし、ウナギをどのように調理していたのか、その食法は不明である。
古代の事跡を知るためには、古典によらざるを得ないが、日本では「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」などに、当時、食用にされた水産生物があげられている。
「古事記」(712 年)は、わが国の先史及び有史時代を知る古典として、最初であり最も権威のあるものである。これは天武天皇で諸家の旧説を整理し、稗田阿礼(ヒエダノアレ)に誦習させたものを天明天皇の和銅4(711)年に太安万侶(オオノヤスマロ)に勅して筆録させた書物である。
これにあげられる水産生物は、ミチ(アシカの一種)、ワニ、タイ、アユ、スズキ、シビ、カイ、ハマグリ、クラゲ、シホであり、残念ながら鰻は入っていない。
「風土記」(715~733 年)は、元明天皇の和銅6(713)年に、諸国に令して地方の物産、伝説などを収録して奉られたもので、多くは散逸しており、常陸、出雲、播磨、豊後、肥前だけが一部現存している。これには、イルカ、ボラ、ナヨシ、コノシロ、ウナギ、ウグイ、ニベ、コイ、サケ、シラウオ、ワニ、フナ、シビ、フグ、ハゼ、クコ、イカ、エビ、ウニ、ウミマツ、ノリの水産生物が記されている。
「日本書紀」(720年)は「古事記」につぐもので、元正天皇の時代に一品舎人親王(インポントネリシンノウ)が編纂(へんさん)し、奉上されたものである。これには「古事記」にあげられた水産生物以外にクジラ、コイ、マグロなど種類が増え、陸上動物より多くなっている。
「万葉集」(313~759年)は、仁徳天皇から第47代淳仁天皇の天平宝宇3(759)年までの歌を集めたもので、選者及び年代には異説が多いが、これに詠(よ)まれた水産生物にウナギが入っている。
なお、水産物の調理法は「大宝律令」の税制としての租庸調の法のうち、調(諸国の物産を上納する制度)の中に、水産物としてあげられているので、うかがい知られるが、鰻については不明である。
その調理法は、煮て乾したり、肉片を細く割って塩漬けして乾したもの、あるいは塩や酢につけたもの、カツオ節の初期のものなどがあって、正倉院文書の記載から、すでに味噌や酢、飴(あめ)、胡麻油、羊や牛の乳から作った調味料によって、料理されていたようである。
以上、奈良、平安時代ともなると、わが国の文化も大いに進み、前時代から、すでに盛んに入ってきた中国文化も影響を与え、日常生活に大きな変化が生じた。
とくの飛鳥時代に渡来した仏教は、食生活上にも大きな変動を与えたが、その著しいものは、牛や馬のように飼養した動物の食用を忌避し、肉食をけがれとして、敬遠する風習が一般に広まった。
しかし、魚類は肉食のうちに含まれないこととされていたので、獣肉のかわりに、魚類がとくに重視される傾向となったのである。
この時代の古典としては、「延喜式」が最上で、醍醐天皇の勅令により、藤原時平が編輯し、その他弟の忠平他が、これを継続して、延長5(927)年に完成したものである。朝廷の年中行事の儀式、各国の特産品等を記したもの。御料理、調租品としてあげられているものに、水産品は「大宝律令」のものより、種類が多くなっており、コイ、フナ、ヒウオ、アメ、サケなどの淡水魚も入れられている。
これらの製品も複雑になっていて、アワビを例にとれば、20数種も製品が区別されている。
時の流れと共に、世の中も進歩していることを表わしている。
「本草和名」は深根輔仁が延喜18(918)年に醍醐天皇の勅令で撰進した当時の薬物の書であるが、水産生物としてムナギ(ウナギ)がコイやアユなどと、あげられている。
「和名類聚抄」は承平年間(931~938)に源順が編輯したものといわれるもので、魚介類のなかに、ムナギ(ウナギ)があげられている。
平安時代は京都を中心として文化が進み貴族政治により、大宮人は生活を享楽し、優美な生活を営んだ時代であって、食物に対して、実用よりも趣味本位の傾向で、しばしばおこなわれる饗宴も、たいへん複雑になっている。したがって、その料理法の巧妙さを、ほめ味わうようになり、これが一種の遊びとなった。貴族の前で、その妙技をふるい、貴族自身もその技を練習し、鳥魚料理に、いろいろな秘伝や儀式の慣例ができた。食を味わうというよりは、食を楽しまんとするようになったわけである。
鎌倉時代は武家が政権を握っていた時代であり、平安時代の反動で、簡素な生活様式が重んぜられてきたので、食物に対しても実質本位となった。そして仏教の興隆と共に精進料理が生まれ、お茶を飲むようになったのは、食物史上画期的であるといえよう。
しかし、一方で各自が練習していた料理法の妙技は、特殊人に専門化して料理の流派を生み、次の室町時代には、進士、四条、大草などの家元が生まれた。武士の権力が確立するにつれて、平安文化の名残りと新しい大陸文化の融合により、室町時代の文化が生まれたのである。
食物の新しい傾向は、量的には平安時代と大差ないが、新しくしょうゆなどの調味料が発達し、料理法が質的に発達をとげた。水産物は刺身、蒲焼、カマボコなどに調理されはじめた。そして食事に対する儀式作法の制定、茶の湯などが起こってきた。
ところで、本題の鰻に戻るが、古代の人たちは、初めて鰻を食べた時は、生鮮魚の状態であったかもしれない。しかし、鰻の血液中には毒素があるため生では舌を刺す味と生臭さで、誰もが好むものではない。しかし、これは、徹底的に水洗するか、加熱によって完全に消失する。したがって、鰻の料理が普及したのは、火の発見以後であろうと考えられる。
現存する最古の料理法は、ニュージーランドのマオリ族がおこなっている方法で、石をよく焼いて、焼石を作り、その石の中に芭蕉葉などに包んだ鰻を埋めて、蒸し焼きにする方法である。
日本でも、ほぼ同じような経過をたどりつつ、調味料の発達しない時代は、もっぱら、塩で味付けしたようで、「近世事物考」(1848年・久松祐之著)に明らかである。このほか、次第に酢やしょうゆなども用いられたりして、ついに日本独特の蒲焼が流行するにいたったのであろう。蒲焼の最古の記録は応永6(1399)年、「鈴鹿家記」にうなぎ焼とあり、ついで寛永元(1504)年「大草殿より相伝の聞書き」には蒲焼きとあるが、今の料理法とかなり異なる。
外国では、日本ほど調理に凝らず、ぶつ切りにして煮込みとかスープに、また燻製などの簡単な料理方法が多い。
北部では、無鱗魚として好まれないが、中南部の特に沿岸の人たちはよく食べる。ふつうはメン類のだしに広く使う。一般には、輪切りにして油でサッと炒め、しょうゆで煮て食べるが、紅わい鰻(鰻の味噌煮)というのは、輪切りにして、ゆでた後、酒や味噌等の調味料と一緒に煮しめたものである。杭州は塩づけにし、上海ではヨーロッパの影響を受けて燻製にする。
一般家庭では食用することはまれで、食べる場合は強壮強精食品であり、料理法は、八珍といわれる葯味(やくみ)の適当量を煎(せん)じて葯湯をとる。そして鰻を生きたまま酒につけ、酒に参った鰻を葯湯に移して、器にふたをして、その器ごと蒸し鍋に入れて、鰻が煮えるまで蒸しあげる。
紅焼河鰻は、鰻の頭を切って殺した後、沸騰した湯に3分間入れて取り出し、タワシでぬめりを除き、内臓を除去後、洗って3cmぐらいをブツ切りにする。一方、甘栗を強火の油で1分間揚げて、表面が、きつね色になったら取りあげる。そして鍋に、ねぎ、しょうが、鰻を入れて炒め甘栗、酒、しょうゆ、砂糖、こしょう、水を入れて蒸し、片栗粉を水に溶かし、ソースを入れた液を混入して仕上げる。
鰻を丸のまま、1日中水煮して薬用にする。
薬味草入りソースかけは、大型の鰻を、胸鰭の真下をひもでしばって釘にかけてつるし、ひもの下を裂き、塩をつけた手で皮を深くはぐ。そして、あごの肉の部分だけを切り、そこから下に引っぱると、頭に内臓がついて残り、肉と分けることができる。バターと小麦粉と魚から取った汁でホワイトソースを作る。
デクル、ケンベル、パセリの薬味にみじん切りのタマネギとホワイトソースを加えて、煮立て、それをこして、鰻を入れ、20分間煮通し、鰻を取り出し保温しておく。残りの煮汁に卵黄を落として、かきまぜ、さらに薬味を刻んでレモン汁を加え、ソースを作り、鰻の上にかけ、きゅうりのクリーム和えをそえる。
セージ巻きは、鰻の肉に塩とレモン汁をふって下味をつけ、セージの生葉に包む。バターを溶かした鍋に入れ、バターを時々すくって、鰻にかけながら、弱火で10~15分間で焼き上げる。そして、セージの葉を取り除き、温めた皿に新たにセージの生葉3~4枚をひいた上に盛り、焦げ色のついたバターをかけ、小さなジャガイモの塩ゆでをつけ合わせる。
ハンブル風スープは、鰻の皮、内臓を除き、適当な長さに切り、よく水洗い後、30分ほど酢と塩と香辛料とを混ぜた液につけ込む。このつけ汁は、鰻と共に後でスープに入れる。スープは、骨付きハムを野菜類と水に戻したアンズと、煮物用なしとを加えて煮込む。そしてハムだけを取り出し、肉をそぎ取って細く裂く。
味つけは、塩、砂糖、レモン汁または白ワインで甘酢っぱくする。この甘酢っぱさが鰻スープの独特なもので、著名な北ドイツ料理のひとつである。
その他、北部の寒冷な地方では、燻製鰻が賞味される。
クールブイヨン煮は、精肉に処理した鰻を6cmの切り身か、丸ごとをバター焼き鍋に並べ、ニンニクとブーケ・ガルニを加え、食塩とこしょうで味加減をして、ワインを入れ、玉ねぎとにんじんを加えて煮る。煮汁は目の細かいスープにこす。このように煮たものを、フライや網焼きに、またタルタル風やマトロット料理にする。
以上が主な料理であるが、鰻は以上の国の他、イギリス、ベルギー、イタリア、オランダ、スウェーデン、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドでよく食べる。